クリスマスを待つ
クリスマスに特別な予定を入れるわけでもないが、この時期に街中がツリーやイルミネーションでキラキラしているのは悪くない。
12月に入り、我が家もごくささやかなクリスマスコーナーを作った。
リビングの壁に、絵本とトムテという人形を飾ったもの。
基本的にアジアンテイストな我が家の中で、ここだけが北欧風だが、まあいいだろう。
もうひとつ。12月に入って、やったこと。
前もって買っておいた、アドベントカレンダーを開けた。
12月1日からクリスマスイブの24日まで、ひとつひとつ扉を開けていくもの。
そうして毎日扉を開けて、クリスマスを待つ。
チョコなどのお菓子が入っているものもあれば、ハンドクリームや香水のミニボトルが入っているものもあるそうだ。
毎日扉を開けると香水が入っているのも素敵だなと思ったが、調べたところ6万円!
さすがにお値段も素敵だ(汗)
現実的なところで、紅茶のアドベントカレンダーにした。
毎朝お湯を沸かし、紅茶を煎れる。
言葉にするほど優雅でもないが、今日はどんなお茶だろう?と箱を開けるのは楽しい。
クリスマスまで、こうして朝が始まる。
言葉を編む
「博士と狂人」そして「マルモイ ことばあつめ」両方、今年観た映画だ。
前者の舞台は19世紀のイギリス、後者は日本占領下の韓国と、時代も場所も異なるものの、いずれも辞書作り、それに取り組む人々に纏わる物語だ。
これらの映画には、共通して「文字が読めない人」が出てくる。彼らは、それぞれの理由から辞書作成者たちと関わることになり、その中で文字を教わっていく。
「博士と狂人」では、自ら手紙を書くようになり、それがどんどん上達していく。「マルモイ ことばあつめ」では、街中の看板、居酒屋のメニューを、楽しげに読み上げていく。
彼らはとても生き生きしていて、どこか誇らしげだ。文字を覚えることにより、エンパワーメントされていく。映画とは言え、そんな彼らを見ていると、こちらも嬉しくなってくる。
私自身、日本語であれ、外国語であれ、新しい言葉を覚え、文字が読めるようになるのは楽しい。例えば、知らない花の名前を知ると、その花が身近になる。読めなかった文字が読めるようになると、途端にその意味が立ち上がってくる。
言葉を知る、文字を知るということは、世界の解像度を上げることなのだと思う。
もちろん、音楽家は音でそれを感じ、画家は色彩やフォルムでそれを感じるのかもしれない。
でも、やはり言葉や文字の力は大きいのだと思う。
上記二つの映画には、もう一つ共通項がある。辞書を作るのにあたり、ボランティアを募ることだ。各地のボランティアから、言葉の使用例などを集めるのだ。各地から膨大なメモが送られてくる様は、壮観だった。
今の日本で、どういう方法で辞書を作るのかは知らない。でも、もし、そういうボランティアを募ることがあれば、是非ともやってみたい。
密かに、そんな野望を持っている。
葉っぱが欲しいのです
今住んでいる街は、近郊農業が盛んらしい。地元野菜を取り扱う八百屋もあるし、週末には農家直販の小さな野菜市が開かれる。
普段はスーパーでも買い物するが、こうした八百屋や野菜市に行くのは楽しい。
鮮度がいいし、時にはかなりお得なものもある。もっとも冬場に野菜市に行くと、売っているのはサトイモばっかり!なんてこともある。旬のものを売っているのだから、それはそれで仕方ない。
さて先日、地元野菜を売る八百屋に行った。店頭にはみずみずしい野菜が並んでいる。その日の目当ては、大根。長い葉っぱがついて、白くつやつやした立派な大根は、見るからに美味しそう。
会計を済ませた後、レジの人に、大根の葉っぱはどうするか聞かれた。
いずれにせよ、家に帰ったら葉っぱは切り落とす。その場で、切り落としてもらうことにした。
それはいいのだが、切り落とした葉っぱを捨てようとするではないか。葉付きの大根が欲しいので、スーパーではなく、その店で買っているのだ。
慌てて「葉っぱもください」と言い、無事に葉っぱももらった。
店にいた他の人が、大根の葉をどうするのか聞いてくる。そぼろと炒めたり、油揚げと煮びたしにしたり、特に変わったことはしていない。でも、どれも美味しくて好きなのだ。
そんな会話をするのも楽しい。
家に帰り、輪切りにした大根を干し、葉っぱでそぼろ炒めと、煮びたしを作る。
適当に切って、柚子胡椒で和える。その日の夕飯は、大根定食。
この時期だけの楽しみ。
思いがけない休日に映画を観る
先日、急に仕事が休みになった。理由は、なんと職場に爆破予告が届いたからだ。
のんびりした職場でこんなことがあるとは驚いたが、思いがけず休みになったので、映画やカフェに行ってきた。幸い予告時間を過ぎても何もなく、職場は無事。
まあみんな「愉快犯だろう」と思っていたし、その通りの結果ではある。
私にしても、給料は契約通りにいただけるし、休日を満喫したし…で、迷惑を被ったわけではない。でも、なんだかなあ…という気もする。
もちろん、決して爆破してほしかったわけではなく、何のためにこんなことするんだって気持ち。
ネットで調べてみたら、最近このような爆破予告が増えているそうで驚いた。特に大学への爆破予告は、10月だけで20件近くあったとか。どれだけ愉快犯がいるんだろう。なんだかなあ。
さて、この休日に観た映画は「罪の声」。グリコ・森永事件をモチーフにした作品だ。
(作品中では架空のメーカー名になっている)
テンポがよく、役者もはまっていて、最後まで面白く観ることができた。
実際のグリコ・森永事件の時、私は子どもだったが、お菓子売り場からお菓子が消えたり、キツネ目の男の似顔絵がでかでかと新聞に載ったり、すごい騒ぎだったのをぼんやり覚えている。
就職後、とある菓子メーカーの方と話す機会があったのだが、その時にこの事件の話になった。当時は本当に大変だったそうで、店舗の巡回などに人が割かれたこと、巡回中に警官に「駐車違反」だと咎められ、「あなたたちが犯人を捕まえてくれないからこんなことになるんです!」と逆切れしそうになったことなどをうかがった。
映画の中でも「劇場型犯罪の走り」と言われていて、本当に大事件だったのだなと思う。
それにしても映画を観ていたら、事件のあった時代がとても昔のように感じられた。
何か曖昧模糊とした、ある種のいかがわしさ、薄暗さを感じさせるというか。
私自身も、その時代に生きていたのにも関わらず。
では、現在はどうなのだろう。映画では、声紋判定において当時分からなかったことが、現在の技術で分かったという場面があった。
そのように技術が進み、あいまいだった場所に光があたることもあるだろう。
でも、一方で、さほど変わっていない部分もあるような気がする。
例えば、爆破予告する愉快犯。現在でもそうした薄暗さはつきまとう。
その暗さを照らすもの。それを大事にしていきたい。
インディアン・ムービー・ウィーク ~ ウイルス
ただいま「インディアン・ムービー・ウィーク」という、インド映画をまとめて上映するイベントが行われている。これは毎年あるイベントで、今年も10本のインド映画がやってきた。先日観た「ウイルス」もその中の一本だ。
インド南部、ケララ州のカリカット。そこの病院に、高熱と激しい嘔吐という症状の男性が運び込まれた。処置の甲斐もなく、男性は死亡。そのうち男性の処置に当たった看護師も同じ症状で倒れ、やがて死亡。原因は有効なワクチンも治療法もない、ニパウイルスだった・・・。
ストーリーは主に対策本部の行動を追っていく。冷静に判断や対応をしたり、粘り強く感染経路を辿ったりする本部。
しかしそんな対策本部にも、ある種の圧力がかかる。その圧力に屈せず、あくまでも冷静に根気強く行動する本部。
また、粛々と目の前に患者に向き合う医療現場の人々。頭が下がる思いでいっぱいになる。
こうした本部の行動とは別に、街中の様子もさらりと描かれる。
市場や店が閉まり、売り上げが減って困る人々。
ある医療従事者の男性は家族への感染を防ぐため、病院に泊まり込むことにした。しかし「あのうちの主人は病院から帰ってこない。ウイルス感染者に違いない」という憶測が広まり、物を売ってもらえないという事態が起こる。
また、高熱の男性がタクシーで病院に行こうとするが、「お前は二パだろう」と乗車拒否をされる。
どれも、今のコロナ下でも起こっているようなことで、未知のウイルスへの恐怖は同じなのだ。
そして、私も含め、多分多くの日本人が想定しない問題も起こる。
埋葬をどうするか。インドの人の多くを占めるヒンズー教徒は火葬だが、イスラム教徒は土葬で火葬は厳禁。感染予防には火葬が好ましいという意見も出るが、「遺族の悲しみをこれ以上増やしたくない」という意見も。マレーシアなど他国でニパウイルスが発生した時の状況を踏まえ、対策本部のトップはエビデンスに従おうと判断を下す。エビデンスを元に冷静に判断をする本部には、とても頼もしさを感じた。
冷静に、粘り強く、粛々と。未知への恐怖へ向き合うために必要なのは、こうしたことなのかもしれない。「今」観るべき映画だと思う。
バトンを育てる
久しぶりに友人と会った。
ゆっくりお茶をし、ぶらぶらと買い物をした。何気ないようでいて、贅沢ないい時間だった。
友人と話すうち、少々嬉しい驚きがあった。
自粛期間中この友人に、SNSであるバトンを受け取ってもらった。
それがいろいろ考えたり、気づいたりするきっかけとなり、今後やりたいことなどに繋がっているそう。それはとても彼女に似合っていて、いいなあと思った。
私が彼女にバトンを受け取ってもらったのは、その前に彼女からあるバトンを受け取っていたからで、そんな単純な理由でやったことが、思わぬきっかけとなったのだ。
意図したことではないけれど、でも、嬉しい。
そして、私も彼女からバトンを受け取った時、いろいろ考えた。それをちゃんと言葉にして残したいと思ったのが、このblogを始めたきっかけだ。
超スローペース、超マイペースだけど、こうして言葉にして残すのは楽しい。
例えばストレッチ。例えばアロマテラピー。例えば楽器を弾く。自分の軸を整える方法は、いろいろあると思うけれど、言葉にして残す、アウトプットするのも、その一つだろう。まだまだ手探りではあるけれど、そう感じている。
お互いに渡したバトンが、それぞれにとって、あるきっかけとなっている。
嬉しい偶然だ。
バトンを受け取って、次の人へ渡して、それでおしまい…ではなかったんだな。
バトンが残したものは、まだ私の中にある。それをゆっくり育てていこう。
シンプルな混ぜご飯
季節を感じる場面はいろいろだけど、スーパーの店頭もそのひとつ。
この時期、暑い中買い物に行き、店に着いて一息つく。
そんな時、カラフルな夏野菜たちが元気をくれるような気がする。
大葉やバジル、ししとうの緑、トマトの赤、茄子の紫、とうもろこしの黄色。
この時期の野菜売り場はにぎやかだ。
そういう野菜を使ったご飯が好きだ。作るのも食べるのも楽しい。
夏によく作るのは、とうもろこしご飯。とうもろこしの実と軸、塩少々で炊くシンプルな混ぜご飯。軸からうまみが出て美味しい。
醤油味の炊き込みご飯も美味しいけれど、個人的には塩味のシンプルな混ぜご飯が好きだ。
インドネシアにいた時も、狭いキッチンで何度かとうもろこしご飯を作った。おかげさまで向こうの人にも好評だった(多分)
春にはグリーンピースやそら豆。秋には生の落花生やサツマイモ、栗。
(残念ながら、まだ冬の定番はない)
季節を食卓に乗せる時、少し華やいだ気分になる。
枝豆、じゃこ、白ごまを混ぜたご飯。おこげができたのも嬉しい。