あっちゃーあっちゃー
「本日の栄町市場と、旅する小書店」(宮里綾羽 著)
この2か月ほど、少しずつ読み進めている本だ。2か月もかかっているのは読みづらいからではない。一気に読み終えるのがもったいないような気がして、のんびりのんびり読んでいるのだ。
こちらは、那覇の栄町市場にある古本屋の副店長さんが書かれた本。
以前このblogで、やはり那覇の市場の古本屋の店長さんの本について書いた。
「市場のことば、本の声」は牧志市場、栄町市場はその近くにある別の市場。
それぞれ、とても素敵な本だ。
「本日の栄町市場と、旅する小書店」でも市場の人々が生き生きと描かれていて、愛おしい。著者の方が那覇生まれということもあってか、ところどころ方言が使われていて、それがまた味わいがあってよい。標準語にはない響きやニュアンスは、言葉の世界を豊かにしてくれる。
そうした方言の響きを面白く感じつつ、特に気になった言葉がある。「あっちゃーあっちゃー」。散策という意味らしい。
さて。またここで気になることがある。「あっちゃーあっちゃー」は散策。
では「あっちゃー」には意味があるんだろうか?
ここで話が飛ぶが、私は外国語の習得が苦手だ。でも外国語を学ぶのは面白い。
(文法のロジックが分かると満足してしまうので、習得には至らないのだが・・・)
で、今までかじった中にインドネシア語、ヒンディー語がある。インドネシア語では散策は「jalan jalan」(ジャランジャラン)だが「jalan」だけだと「道」という意味。そしてヒンディー語で「アッチャー」は「良い」というような意味。
そんなわけで、たまたま知っている言葉と近しい響きの「あっちゃーあっちゃー」に興味を持ったのだ。
早速ネットで調べると、「あっちゃー」単体だと、もとは散策する人、転じて「〇〇する人」という意味だとあった。もっとも、知っている人は知っている程度という言葉だそうで、あまり一般的ではなさそうだ。
「あっちゃー」は「道」でも「良い」でもなかったが、単体でも意味があることが分かって満足した。こうして知識がつながり、新しい言葉の扉を開くのはわくわくする。
さて、この本を読み終えるにはまだしばらくかかりそうだが、読むたびに市場の人々への愛着が湧いてくる。もう少し自由に旅ができるようになったら。「あっちゃーあっちゃー」しに行こう。
瞳をひらいて
ここしばらく眼科へ通っている。左眼が炎症を起こしているためだ。10年ほど前に初めて炎症を起こし、その後時折再発している。今回は症状がひどく、通院が長引いている。
治療のために目薬が3種類も処方されたのだが、そのうちのひとつには瞳孔を開くという作用がある。要は黒目が大きくなるのだ。
黒目が大きくなった分、光を取り込むので、人によっては視界がまぶしくなったり、ぼやけたりする。そのため、車などの運転は禁止。
私の場合、例えば昼間だと光の粒が舞っているように見えたり、日が暮れる頃だと、信号や街灯がにじんで見えたりする。車の運転はしないけれと、確かに危ないだろうなと思う。
でも、実のところ、光の粒が舞ったり、街灯がぼやけたり、普段と違う風景が見えるのは少々楽しい。特に夕暮れ時、灯りがにじんで見えるのは幻想的だ。
岡本太郎やダリの写真を見ると、瞳孔が開いているようにも思える。
もしかしたら、彼らの目にも幻想的な光景が映っていたのかも、それがああした作品の制作につながったのだろうか…と想像する。
もちろん、実際のところは分からないけれど。
凡人の私は、彼らのような瞳を持っていない。
そろそろ左眼が完治して欲しいけれど、あの光景が見られなくなるのは、少しだけ残念な気もする。
〇〇しごとに憧れる
恥ずかしながら、ずぼらな性質だ。
この春からしばらくの間、断捨離のいいチャンスだなと思いつつも、自粛という名目でぐーたら過ごすことが多かった。ぐーたら万歳。
だからこそ、憧れるのが「丁寧な暮らし」。
部屋をすっきり整える、ガーデニングを楽しむ、手芸をする・・・などなど。
ずぼらな上に手先も不器用なので、ハンドクラフトなどは夢の夢。
マスク不足の折には、血迷って手作りマスクに挑戦しようと思ったのだが、その時買った布はいまだにそのまま。布を広げることもないうちに、普通にマスクを買えるようになった。
とは言え、やっぱりしつこく憧れる「丁寧な暮らし」。
その手の雑誌を時々買うのだが、読むだけでちょっといい気分になる。そしてそういう雑誌で使われる「〇〇しごと」という表現は、丁寧さを5割増しにしているようで、うっとりと憧れる。
家事→家しごと、手作業→手しごと、裁縫→針しごと、といった具合。なんて素敵な表現だろう。
なので(内心しぶしぶ)ボタン付けしなくちゃ・・・という時は、やる気を出すために「針しごとをしなくちゃ」と言い換えて、自分をだます。細やかなライフハック。
さて、そうして自分をだましつつ、ぐーたらしているのだが、食に関することだけは唯一例外的に「丁寧な暮らし」に近づける。
味噌を仕込んだり、らっきょうを漬けたり。美味しいものを食べたいという欲もあるけれど、ちまちまと無心に手を動かすのは悪くない。これぞ「手しごと」の醍醐味。単なる食いしん坊なのだけど。
今年は家にいる時間が長かったので、そうした「手しごと」も楽しんだ。
梅干し、梅シロップ、実山椒の塩漬け、生姜シロップ などなど。特に梅干しと梅シロップは、この暑さを乗り切るために大活躍中だ。
梅シロップをソーダで割って、ひと休み。
今年の「梅しごと」は上出来だなあと、一人でにんまり。
ちょっとだけ「丁寧な暮らし」の気分も味わう。
(黄色い梅で梅干しを、青梅で梅シロップを)
(スパイスを入れて仕込んだ梅シロップ)
(酸っぱくできた梅干し)
いつもの夏とは違っても
長い梅雨が明け、猛暑がやってきた。
その前は外出を自粛していたのもあり、いまひとつ季節感がないというか、宙ぶらりんな時間を過ごしていたような気がする。
しかし、この暑さで一気に季節感を取り戻せた。
夏といっても、今年は特に旅行などの予定もない。でも、やっぱり少しは出かけたい。
近場に大きなひまわり畑があると知り、行ってみた。
このひまわり畑でも、例年は出店やステージプログラムがあるようだが、今年は中止。
そのせいか人出は多くはない。それでも広がるひまわり畑は、なかなかの圧巻。
自分の背丈より大きなひまわり。小ぶりの花がいくつも咲いているひまわり。花びらの黄色が薄いひまわり。一口にひまわりと言っても、様々な種類があるものだ。
暑い日差しの中、立ち止まって汗をぬぐう。辺りを見ると、人々はそれぞれ写真を撮ったり、散歩したり。人がのんびり楽しむ様子はいいなと思う。
花火大会。夏祭り。里帰り。その他諸々。いつもの楽しみがない夏。
でも、ひまわりは咲き誇るし、汗もかく。
いつもの夏とは違っても、今年の夏を楽しむ。
森の人に会いに行く
先日、ネットで興味深いニュースを見た。
休園中の動物園で、動物たちが退屈しているというもの。特にオランウータンやチンパンジーなど、類人猿では影響が大きいとか。
それを見て、再読しようとある本を引っ張り出してきた。黒鳥英俊著「オランウータンのジプシー」。
多摩動物公園にいた雌のオランウータンについて書かれた本だ。
数年前、多摩動物公園の夜間公開に出かけた。昼間と違う動物たちの姿が見られるので、なかなか面白い。
オランウータン舎にも入ってみたが、オランウータンは全然いない。もう寝ちゃったのかな?とあきらめようとした時に、係の人が「あそこにいますよ」と教えてくれた。
振り返ると二階からオランウータンが、我々を面白そうに見下ろしている。
観察されていたのは、我々人間の方だった!
これをきっかけにオランウータンに興味を持ち、買ったのがこの本。
今度は昼間に動物園へ行って、ジプシーとご対面。
ガラス越しに会ったジプシーは私の持ち物に興味津々。バッグの中から、ブラシや化粧品などいろいろ取り出し、使って見せる。もっと見せろ!とばかりに、ガラスを叩くジプシー。言葉はなくても、なんとなく会話が通じたようで、嬉しくなる。
その後も何冊かオランウータンの本を読むうち、すっかり彼らに惹きこまれ、動物園では飽き足らず、ボルネオ島まで出かけて行った。オランウータン=森の人という名の通り、濃い緑の森の中で会ったオランウータンは、やっぱり興味深げにこちらを見ていた。
そんなことを思い出しつつ、再読するうち、また彼らに会いたくなった。
残念ながらジプシーはもういない。数年前に死んでしまった。でも、ジプシーの家族は健在だ。
動物園が再開して、落ち着いたら、会いに行こう。たくさんの道具を持って。
ロマンチックな仕事
ぶらっと、本屋に出かけた。
個人的に、本屋は自分を確認するバロメーターのひとつ。
一回りして、まったく興味を惹く本に会わなかったら、よっぽど疲れている証拠。
さっさと帰って、温かいものを飲んで、布団に包まった方がいい。
この時は、かなりいい出会いがあった。宇田智子著「市場のことば、本の声」。
那覇の市場通りで、古本屋を営んでいる店主の方が書かれた本だ。
表紙や帯に書かれている言葉、ひとつひとつが魅力的で速攻買った。
表紙の言葉に惹かれたのには、わけがある。
実態を知らずに勝手にロマンを感じる仕事がふたつあり、そのひとつが古本屋なのだ。
そして、以前那覇に行ったとき、偶然このお店に行き当たった。
那覇の市場の周りを歩き回っていた時に、貸店舗という札をいくつか見かけた。
「ここでお店を開くなら、何がいいかな、古本屋とか。カフェスペースもあるといいな」と空想しながら歩くうち、本当に古本屋に行き当たり、「おっ!」と足を止めた。
そのご店主が書いた本に、近所の本屋で偶然出会った。
こういう出会いは、妙に嬉しい。
ほくほくしながら帰って、ソファでとぐろを巻き、ページをめくる。
那覇の空気をくっきりと思い出す。
読み終わるのが惜しくって、ゆっくり読もうと思ったが、ついつい一気に読んでしまった。
ちなみに。もうひとつ勝手にロマンを感じる仕事は灯台守。
(そもそも、今も灯台守という仕事はあるのだろうか…?)
この本に、灯台守の物語を読むエピソードが出てきた。
それを読んで、またまた「おっ!」と思った。
こういう偶然も妙に嬉しい。
バトンをつなぐ
先日、SNSで友人から「バトンを受け取ってくれない?」と聞かれた。
聞かれたのは、「コロナ終息を祈るおむすびバトン」。
「コロナ終息とおむすび?」と意外な組み合わせに少々驚いたが、思うように人に会えない状況で、バトンをつなぐのって大事かもと思い直した。
誰しもそれぞれの大変さがある中で、つながりを感じることがエールになるかもしれないと。何より声をかけてくれた友人の気持ちを受け取り、次へつなげたい。
そして「おむすび」というのが、意味深いなとも。
この春まで半年ほど、海外の高校で日本文化を紹介する機会に恵まれた。
現地の先生から「おむすびを紹介してほしい。歴史や意味も教えてほしい」と言われ、泥縄式にいろいろ調べてみた。
改めて調べてみると、なかなか面白い。
おむすび。むすぶ。願いを込め、気持ちと気持ちをむすぶ。そしてつなぐ。
そして、おむすびには、おにぎりという言い方もある。
おにぎり。鬼(おに。悪いもの)を切る。厄除けを祈る。
そんな意味があるようだ。
コロナという鬼を切って、人をつなぐ。そんな願いを込めつつ。