ゆるゆるとアウトドア

 

寄席で何度か三題噺を聞いたことがある。

お客さんから3つのお題(キーワード)をもらって、即興で噺を作って語るというもの。

見事にお題が繋がる時もあれば、ちょっと苦しいかもって時もあるが、落語家さんって凄いなーと思う。

 

さて。

厚めのレジャーシート

猫柄のホーローマグカップ

折り畳める小さなテーブル

 

もし、この3つのお題を出したら、どんな噺ができるのだろう?

実際は、これらは「この春に買ったもの」で、何のひねりもない。

このところ、海岸や川縁を友人と散策することが増えてきて、開けた景色の中でのんびりお茶しようとひとつひとつ揃えてきた。

 

折りたたみのテーブルは、ゴールデンウィーク、友人と出かける前日に、アウトドア用品専門店で買った。

アウトドア用品専門店。今まであまり縁のなかった場所なので、なかなか新鮮で面白い。そのうち小さなコンロも買って、外でコーヒーを淹れたいなあとも思うが、まずはテーブル。

 

幸い、最初に入ったお店でいいものが見つかった。

ついでにコンロや折りたたみチェアーなどの下見もして、これから何を揃えようかなと考える。テントも買って、デイキャンプも楽しそう。でも少ない荷物で、身軽に手軽に出かけるのもいいな。とりあえず明日はゆるーく行こう。

 

当日は暑いくらいの好天。大きめのリュックにテーブルなどを入れ、電車で待ち合わせ場所に。

川縁にテーブルを広げ、持ち寄ったコーヒーやお菓子をお供にのんびり。ささやかだけど、今、必要なものは全部ある。

 

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夕方、テーブルを畳み、電車を乗り継ぎ海岸の駅へ。サクッと移動できるのも、身軽さ故。

改札から出られないその駅では、夕方の開けた景色を楽しむ人々。

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日が傾き、空の色が移りゆく、この時間。

日の入後、日の出前の薄明の時間をマジックアワーと名付けた人は天才だけど、日の入前のこの時間だって魔法のように美しい。

何かいいネーミングはないものかと思いつつ、ゆるゆると海を後にする。

聞こえない音を聴く

週に一度、ヨガに通っている。ヨガを習うならインドで学んだ先生に教わりたいなと思っていたら、近くにいい教室が見つかった。

少人数での穏やかな空間。無理せず、丁寧にひとつずつアーサナ(ポーズ)をやっていくところが良い。

少し座学、呼吸法の練習などもある。

 

このところはマントラの練習。サンスクリット語で書かれている。もちろん普段は馴染みのない言葉。アルファベットで書かれたものを見たり、先生のマントラを真似たりしながら唱えていく。

 

唱える時、頭の中にまずカタカナが浮かぶ。サンスクリット語をそのままの音で捉えることができず、自分に分かるカタカナの音に変換しているんだなと思う。文字を覚える前の子供の頃は、まずは音で言葉を捉えていたはずなのに、普段どれだけ文字に頼っているんだろう。

 

それでも繰り返し唱えていくうちに、頭の中のカタカナが薄れ、音が響いてくる。隣で唱えている人は外国の人で、彼女からは私と違う音が響いてくる。きっと、私には聞こえない音が聴こえているんだろうな。

 

そうして繰り返し唱えていると、少しずつ違う響きの音が溶け合っていくような気がしてくる。

この時この場所にいる人たちが響かせた、一期一会の音。

 

唱え終わった後、そのままじっと目を閉じて、余韻を味わう。

ここは、聞こえない音で満たされている。

ふと、そんな風に感じる。

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シナモンロールとコーヒー持って

昨年末「トーベ」という映画を観た。

ムーミンの作者、トーベ・ヤンソンを描いた映画。

ラスト近く、トーベの部屋を訪れた人が「お土産」とさりげなく紙袋を渡す。中は素朴で美味しそうなシナモンロール。トーベは喜び、コーヒーを淹れる。きっと、シナモンロールとコーヒーをお供に、いろんな話をしたんだろうな。

気取りのない、その感じがいいなと思った。

 

さて。先日友人と、川縁を散歩しようという話になった。広々とした場所を歩きながら話すのは楽しい。

友人が「コーヒー持ってくよ」と言ってくれたので、私はシナモンロールを持っていった。時々ある、溶かした砂糖がたっぷりかかっているやつじゃなく、トーベがお土産でもらったようなの。

 

川縁を歩き、レジャーシートを敷く。

早速シナモンロールとコーヒーを出す。

むっちりとした生地を噛むと、じんわりした甘さとシナモンの香りが口いっぱいに広がる。そこでコーヒーをひと口。苦味がまた甘味と香りを引き立てる。絶妙な組み合わせ。

 

思いつくままに話したり、ぼうっと空や川の流れを眺めたり。SNSでよくある表現だけど、控えめに言っても最高。今度はもう少し道具を揃えて、デイキャンプもいいね、なんて話す。

その時のお供もきっと、コーヒーとシナモンロール

 

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するすると言葉が

大通りから薄暗い脇道に入って、先を急ぐ。

ほどなく、仄かな灯りを認めて息をつく。

温かい灯りに招かれ、引き戸に手を掛けた。

 

ある紅茶専門店で行われている「夜喫茶」に行ってきた。閉店後の店内で紅茶をいただきながら、詩や絵本を楽しむというもの。

詩や絵本に造詣の深い店主さんお勧めの作品を読む。

 

その日は、きのゆりさんの詩集を出していただいた。なんとなく覚えのある名前と表紙のイラスト。

そうだ、私の家にもきのゆりさんの詩集が何冊もあった。

少女時代に読んだ、きのゆりさんの詩。「あの人はいつも深爪」「髪を切った少女がいます」…本を開いたら、そうしたフレーズがするすると出てきた。

その頃の自分を思い出すのではなく、ただ言葉が出てくる。

 

お名前すら思い出さずにいたけれど、きのゆりさんの詩は自分の中にちゃんと留まっていたのだな。忘れていた言葉、過ぎ去ったと思っていた時間。本当は言葉も時間も降り積もっていて、どこかにしまわれていただけ。

 

優しく香る紅茶をいただきながら、店主さんと詩を読み合った。密やかなこの時間も、交わした言葉も私の中に降り積もっていく。

 

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例えて言うなら毛布のような

月に一度、オンラインの読書会に参加している。

その月の担当者が本を決め、その本の感想などをみんなで話す。思いがけない本との出会いがあったり、他の人の話を聞いて新たな発見があったり。楽しみな時間だ。

 

その第一回目で紹介いただいたのが、安達茉莉子さんの「何か大切なものをなくしてそして立ち上がった頃の人へ」

(その後、トークショーでご本人に会えるとは思ってもみなかった!)

ずっと撫でていたくなる紙を使い、リソグラフで丁寧に刷られた本。ゆっくりとページをめくる。

 

普段あまり人に見せないような、心の柔らかいところ。この本で綴られている言葉はそこに優しく響く。読書会ではその柔らかいところをそっと他の人に見せ、そして自分の中で生まれた響きが広がっていくような気がした。

 

もし言葉に手触りや匂いがあるとしたら、安達さんが書かれる言葉はブランケットみたいなんだろうな。しっくりと柔らかく馴染む、お日様に干したふかふかのブランケット。いい手触りといい匂いのブランケットに包まれたら、極上の気分になれそう。

 

そして先日、もうすぐ安達さんの初エッセイが出ることが分かった。タイトルは「毛布 あなたをくるんでくれるもの」

うわ〜っと叫んで、駆け出したくなるような心持ちで早速予約した。手にするのが待ち遠しい。

 

 

 

 

 

ひとりで進め

先日「タゴール・ソングス」という映画の上映会に行ってきた。インドの詩人タゴールが作詞作曲した音楽を追うドキュメンタリー映画。一昨年公開時に観てから、もう一度観たいなとずっと思っていた。

 

映画の冒頭、インドの風景をバックに朗々と力強い歌が流れ、やがてタイトルが映し出される。これだけでもう、ググッと掴まれる。素晴らしい。(その素晴らしさを説明する語彙を、私は待ち合わせていないのだ。)そして会場が明るくなっても、ずっと掴まれたまま。この冒頭で流れる歌がタゴールの作品「ひとりで進め」だ。最初にこの映画を観た後、本屋に直行、この詩が入っているタゴールの詩集を買った。

 

さて、映画の後にはこの映画の監督・佐々木美佳さんと作家の安達茉莉子さんのトークショー

このトークショーにも掴まれっぱなしだったのだが、中でも安達さんが「ひとりで進め」にアンサーソングを書かれたという話が心に残った。

(とても素敵なアンサーソングなのですが、勝手に紹介するのはやめておきます)

 

タゴールの「ひとりで進め」が、ぐっと下腹に力を入れ踏み出す勇気をくれるとしたら、安達さんのアンサーソングはそっと背中を押してくれるような、温かい希望をくれる言葉。

そうした言葉に出逢えた日は、どこまでも軽やかに歩いていけるような気がする。

 

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言葉とルーティン

※ やや重めの内容かもしれません。苦手な方はご注意ください。

 

 

先日、何気なくTwitterを見て衝撃を受けた。

「戦争が始まりました。国際社会にサポートを願います。」

 

在日ウクライナ大使館のツイート。意味が分からなかった。いや、言葉の意味は分かるけれど、一瞬頭が理解するのを拒否した。

戦争が起こってしまったこと。人が傷つき倒れること。そのニュースが何気ない日常ー猫の動画、カレーや雲の写真など―に混じってTwitterで流れてきたこと。そしてSNSが情報戦の場となること。

どれも足元が崩れるような衝撃。

 

状況が気になり、ツイートを追う。様々な情報が流れてくる。ここで詳しくは書かないけれど、どれを見ても胸が痛み、少しでも早い終結をと思う。

 

が。ふと、ある考えが頭をよぎり、愕然とする。

胸が痛んだのも、平和を願ったのも本当だ。

でも、私はそれらのニュースを「物語」として消費してるんじゃないだろうか。

そう思うと、自分に反吐が出る。

 

冷静になろう。自分に言う。どうやって?

 

こういう時、人はどうするのだろう。

例えば、少しニュースから離れる。人と話す。身体を動かす。

ウォーキングとか丁寧にコーヒーを煎れるとか、ルーティンがある人は粛々をそれを行うのかもしれない。生活の中にルーティンがあるのは強い。

でも、まだ粛々とルーティンを行うのは難しそうだ。

 

結局、ふらふらを足を向けたのは本屋だった。

現実を「物語」として消費することへの嫌悪感はあるけれど、でも「言葉」を欲した。骨太の知性に支えられた誠実な言葉を。切実に。

 

ぐるぐると棚を見て回り、目に留まったのはハンナ・アレントの「責任と判断」。

数年前、映画にもなったユダヤ系の哲学者。(知人にその映画を勧められて、その時初めてハンナ・アレントを知った。)

この本の帯に書かれた言葉を何度か読み、手に取った。必要なのはこれだ。

読み切れるだろうか?と一瞬思ったが、まずは読んでみよう。少しでも。

 

それから毎日少しずつ読んでいる。少し読んでは考え、注釈を読み、調べる。だから時間がかかる。同時に身体を動かす習慣も自然と戻ってきた。どこかでバランスを取ろうとしているのだろう。自分の生活をすること、読むこと、考えること。

その大切さを噛みしめながら、この本を開く。

 

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