言葉とルーティン

※ やや重めの内容かもしれません。苦手な方はご注意ください。

 

 

先日、何気なくTwitterを見て衝撃を受けた。

「戦争が始まりました。国際社会にサポートを願います。」

 

在日ウクライナ大使館のツイート。意味が分からなかった。いや、言葉の意味は分かるけれど、一瞬頭が理解するのを拒否した。

戦争が起こってしまったこと。人が傷つき倒れること。そのニュースが何気ない日常ー猫の動画、カレーや雲の写真など―に混じってTwitterで流れてきたこと。そしてSNSが情報戦の場となること。

どれも足元が崩れるような衝撃。

 

状況が気になり、ツイートを追う。様々な情報が流れてくる。ここで詳しくは書かないけれど、どれを見ても胸が痛み、少しでも早い終結をと思う。

 

が。ふと、ある考えが頭をよぎり、愕然とする。

胸が痛んだのも、平和を願ったのも本当だ。

でも、私はそれらのニュースを「物語」として消費してるんじゃないだろうか。

そう思うと、自分に反吐が出る。

 

冷静になろう。自分に言う。どうやって?

 

こういう時、人はどうするのだろう。

例えば、少しニュースから離れる。人と話す。身体を動かす。

ウォーキングとか丁寧にコーヒーを煎れるとか、ルーティンがある人は粛々をそれを行うのかもしれない。生活の中にルーティンがあるのは強い。

でも、まだ粛々とルーティンを行うのは難しそうだ。

 

結局、ふらふらを足を向けたのは本屋だった。

現実を「物語」として消費することへの嫌悪感はあるけれど、でも「言葉」を欲した。骨太の知性に支えられた誠実な言葉を。切実に。

 

ぐるぐると棚を見て回り、目に留まったのはハンナ・アレントの「責任と判断」。

数年前、映画にもなったユダヤ系の哲学者。(知人にその映画を勧められて、その時初めてハンナ・アレントを知った。)

この本の帯に書かれた言葉を何度か読み、手に取った。必要なのはこれだ。

読み切れるだろうか?と一瞬思ったが、まずは読んでみよう。少しでも。

 

それから毎日少しずつ読んでいる。少し読んでは考え、注釈を読み、調べる。だから時間がかかる。同時に身体を動かす習慣も自然と戻ってきた。どこかでバランスを取ろうとしているのだろう。自分の生活をすること、読むこと、考えること。

その大切さを噛みしめながら、この本を開く。

 

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