葉っぱが欲しいのです

今住んでいる街は、近郊農業が盛んらしい。地元野菜を取り扱う八百屋もあるし、週末には農家直販の小さな野菜市が開かれる。

普段はスーパーでも買い物するが、こうした八百屋や野菜市に行くのは楽しい。

鮮度がいいし、時にはかなりお得なものもある。もっとも冬場に野菜市に行くと、売っているのはサトイモばっかり!なんてこともある。旬のものを売っているのだから、それはそれで仕方ない。

 

さて先日、地元野菜を売る八百屋に行った。店頭にはみずみずしい野菜が並んでいる。その日の目当ては、大根。長い葉っぱがついて、白くつやつやした立派な大根は、見るからに美味しそう。

会計を済ませた後、レジの人に、大根の葉っぱはどうするか聞かれた。

いずれにせよ、家に帰ったら葉っぱは切り落とす。その場で、切り落としてもらうことにした。

それはいいのだが、切り落とした葉っぱを捨てようとするではないか。葉付きの大根が欲しいので、スーパーではなく、その店で買っているのだ。

慌てて「葉っぱもください」と言い、無事に葉っぱももらった。

 

店にいた他の人が、大根の葉をどうするのか聞いてくる。そぼろと炒めたり、油揚げと煮びたしにしたり、特に変わったことはしていない。でも、どれも美味しくて好きなのだ。

そんな会話をするのも楽しい。

 

家に帰り、輪切りにした大根を干し、葉っぱでそぼろ炒めと、煮びたしを作る。

適当に切って、柚子胡椒で和える。その日の夕飯は、大根定食。

この時期だけの楽しみ。

 

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思いがけない休日に映画を観る

先日、急に仕事が休みになった。理由は、なんと職場に爆破予告が届いたからだ。

のんびりした職場でこんなことがあるとは驚いたが、思いがけず休みになったので、映画やカフェに行ってきた。幸い予告時間を過ぎても何もなく、職場は無事。

 

まあみんな「愉快犯だろう」と思っていたし、その通りの結果ではある。

私にしても、給料は契約通りにいただけるし、休日を満喫したし…で、迷惑を被ったわけではない。でも、なんだかなあ…という気もする。

もちろん、決して爆破してほしかったわけではなく、何のためにこんなことするんだって気持ち。

ネットで調べてみたら、最近このような爆破予告が増えているそうで驚いた。特に大学への爆破予告は、10月だけで20件近くあったとか。どれだけ愉快犯がいるんだろう。なんだかなあ。

 

さて、この休日に観た映画は「罪の声」。グリコ・森永事件をモチーフにした作品だ。

(作品中では架空のメーカー名になっている)

テンポがよく、役者もはまっていて、最後まで面白く観ることができた。

実際のグリコ・森永事件の時、私は子どもだったが、お菓子売り場からお菓子が消えたり、キツネ目の男の似顔絵がでかでかと新聞に載ったり、すごい騒ぎだったのをぼんやり覚えている。

就職後、とある菓子メーカーの方と話す機会があったのだが、その時にこの事件の話になった。当時は本当に大変だったそうで、店舗の巡回などに人が割かれたこと、巡回中に警官に「駐車違反」だと咎められ、「あなたたちが犯人を捕まえてくれないからこんなことになるんです!」と逆切れしそうになったことなどをうかがった。

映画の中でも「劇場型犯罪の走り」と言われていて、本当に大事件だったのだなと思う。

 

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それにしても映画を観ていたら、事件のあった時代がとても昔のように感じられた。

何か曖昧模糊とした、ある種のいかがわしさ、薄暗さを感じさせるというか。

私自身も、その時代に生きていたのにも関わらず。

 

では、現在はどうなのだろう。映画では、声紋判定において当時分からなかったことが、現在の技術で分かったという場面があった。

そのように技術が進み、あいまいだった場所に光があたることもあるだろう。

でも、一方で、さほど変わっていない部分もあるような気がする。

例えば、爆破予告する愉快犯。現在でもそうした薄暗さはつきまとう。

その暗さを照らすもの。それを大事にしていきたい。

インディアン・ムービー・ウィーク ~ ウイルス

ただいま「インディアン・ムービー・ウィーク」という、インド映画をまとめて上映するイベントが行われている。これは毎年あるイベントで、今年も10本のインド映画がやってきた。先日観た「ウイルス」もその中の一本だ。

 

インド南部、ケララ州のカリカット。そこの病院に、高熱と激しい嘔吐という症状の男性が運び込まれた。処置の甲斐もなく、男性は死亡。そのうち男性の処置に当たった看護師も同じ症状で倒れ、やがて死亡。原因は有効なワクチンも治療法もない、ニパウイルスだった・・・。

 

南インドで実際に起こったパンデミックを下敷きにした作品。

ストーリーは主に対策本部の行動を追っていく。冷静に判断や対応をしたり、粘り強く感染経路を辿ったりする本部。

しかしそんな対策本部にも、ある種の圧力がかかる。その圧力に屈せず、あくまでも冷静に根気強く行動する本部。

また、粛々と目の前に患者に向き合う医療現場の人々。頭が下がる思いでいっぱいになる。

 

こうした本部の行動とは別に、街中の様子もさらりと描かれる。

市場や店が閉まり、売り上げが減って困る人々。

ある医療従事者の男性は家族への感染を防ぐため、病院に泊まり込むことにした。しかし「あのうちの主人は病院から帰ってこない。ウイルス感染者に違いない」という憶測が広まり、物を売ってもらえないという事態が起こる。

また、高熱の男性がタクシーで病院に行こうとするが、「お前は二パだろう」と乗車拒否をされる。

どれも、今のコロナ下でも起こっているようなことで、未知のウイルスへの恐怖は同じなのだ。

 

そして、私も含め、多分多くの日本人が想定しない問題も起こる。

埋葬をどうするか。インドの人の多くを占めるヒンズー教徒は火葬だが、イスラム教徒は土葬で火葬は厳禁。感染予防には火葬が好ましいという意見も出るが、「遺族の悲しみをこれ以上増やしたくない」という意見も。マレーシアなど他国でニパウイルスが発生した時の状況を踏まえ、対策本部のトップはエビデンスに従おうと判断を下す。エビデンスを元に冷静に判断をする本部には、とても頼もしさを感じた。

 

冷静に、粘り強く、粛々と。未知への恐怖へ向き合うために必要なのは、こうしたことなのかもしれない。「今」観るべき映画だと思う。

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バトンを育てる

久しぶりに友人と会った。

ゆっくりお茶をし、ぶらぶらと買い物をした。何気ないようでいて、贅沢ないい時間だった。

 

友人と話すうち、少々嬉しい驚きがあった。

自粛期間中この友人に、SNSであるバトンを受け取ってもらった。

それがいろいろ考えたり、気づいたりするきっかけとなり、今後やりたいことなどに繋がっているそう。それはとても彼女に似合っていて、いいなあと思った。

私が彼女にバトンを受け取ってもらったのは、その前に彼女からあるバトンを受け取っていたからで、そんな単純な理由でやったことが、思わぬきっかけとなったのだ。

意図したことではないけれど、でも、嬉しい。

 

そして、私も彼女からバトンを受け取った時、いろいろ考えた。それをちゃんと言葉にして残したいと思ったのが、このblogを始めたきっかけだ。

shimanon-note.hatenablog.com

超スローペース、超マイペースだけど、こうして言葉にして残すのは楽しい。

例えばストレッチ。例えばアロマテラピー。例えば楽器を弾く。自分の軸を整える方法は、いろいろあると思うけれど、言葉にして残す、アウトプットするのも、その一つだろう。まだまだ手探りではあるけれど、そう感じている。

 

お互いに渡したバトンが、それぞれにとって、あるきっかけとなっている。

嬉しい偶然だ。

バトンを受け取って、次の人へ渡して、それでおしまい…ではなかったんだな。

バトンが残したものは、まだ私の中にある。それをゆっくり育てていこう。

シンプルな混ぜご飯

季節を感じる場面はいろいろだけど、スーパーの店頭もそのひとつ。

この時期、暑い中買い物に行き、店に着いて一息つく。

そんな時、カラフルな夏野菜たちが元気をくれるような気がする。

大葉やバジル、ししとうの緑、トマトの赤、茄子の紫、とうもろこしの黄色。

この時期の野菜売り場はにぎやかだ。

 

そういう野菜を使ったご飯が好きだ。作るのも食べるのも楽しい。

夏によく作るのは、とうもろこしご飯。とうもろこしの実と軸、塩少々で炊くシンプルな混ぜご飯。軸からうまみが出て美味しい。

醤油味の炊き込みご飯も美味しいけれど、個人的には塩味のシンプルな混ぜご飯が好きだ。

インドネシアにいた時も、狭いキッチンで何度かとうもろこしご飯を作った。おかげさまで向こうの人にも好評だった(多分)

 

春にはグリーンピースやそら豆。秋には生の落花生やサツマイモ、栗。

(残念ながら、まだ冬の定番はない)

 

季節を食卓に乗せる時、少し華やいだ気分になる。

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     枝豆、じゃこ、白ごまを混ぜたご飯。おこげができたのも嬉しい。

 

 

 

 

 

 

あっちゃーあっちゃー

「本日の栄町市場と、旅する小書店」(宮里綾羽 著)

この2か月ほど、少しずつ読み進めている本だ。2か月もかかっているのは読みづらいからではない。一気に読み終えるのがもったいないような気がして、のんびりのんびり読んでいるのだ。

 

こちらは、那覇の栄町市場にある古本屋の副店長さんが書かれた本。

以前このblogで、やはり那覇の市場の古本屋の店長さんの本について書いた。

shimanon-note.hatenablog.com

「市場のことば、本の声」は牧志市場、栄町市場はその近くにある別の市場。

それぞれ、とても素敵な本だ。

 

「本日の栄町市場と、旅する小書店」でも市場の人々が生き生きと描かれていて、愛おしい。著者の方が那覇生まれということもあってか、ところどころ方言が使われていて、それがまた味わいがあってよい。標準語にはない響きやニュアンスは、言葉の世界を豊かにしてくれる。

 

そうした方言の響きを面白く感じつつ、特に気になった言葉がある。「あっちゃーあっちゃー」。散策という意味らしい。

さて。またここで気になることがある。「あっちゃーあっちゃー」は散策。

では「あっちゃー」には意味があるんだろうか?

 

ここで話が飛ぶが、私は外国語の習得が苦手だ。でも外国語を学ぶのは面白い。

(文法のロジックが分かると満足してしまうので、習得には至らないのだが・・・)

で、今までかじった中にインドネシア語ヒンディー語がある。インドネシア語では散策は「jalan jalan」(ジャランジャラン)だが「jalan」だけだと「道」という意味。そしてヒンディー語で「アッチャー」は「良い」というような意味。

そんなわけで、たまたま知っている言葉と近しい響きの「あっちゃーあっちゃー」に興味を持ったのだ。

 

早速ネットで調べると、「あっちゃー」単体だと、もとは散策する人、転じて「〇〇する人」という意味だとあった。もっとも、知っている人は知っている程度という言葉だそうで、あまり一般的ではなさそうだ。

「あっちゃー」は「道」でも「良い」でもなかったが、単体でも意味があることが分かって満足した。こうして知識がつながり、新しい言葉の扉を開くのはわくわくする。

 

さて、この本を読み終えるにはまだしばらくかかりそうだが、読むたびに市場の人々への愛着が湧いてくる。もう少し自由に旅ができるようになったら。「あっちゃーあっちゃー」しに行こう。

 

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瞳をひらいて

ここしばらく眼科へ通っている。左眼が炎症を起こしているためだ。10年ほど前に初めて炎症を起こし、その後時折再発している。今回は症状がひどく、通院が長引いている。

 

治療のために目薬が3種類も処方されたのだが、そのうちのひとつには瞳孔を開くという作用がある。要は黒目が大きくなるのだ。

黒目が大きくなった分、光を取り込むので、人によっては視界がまぶしくなったり、ぼやけたりする。そのため、車などの運転は禁止。

 

私の場合、例えば昼間だと光の粒が舞っているように見えたり、日が暮れる頃だと、信号や街灯がにじんで見えたりする。車の運転はしないけれと、確かに危ないだろうなと思う。

でも、実のところ、光の粒が舞ったり、街灯がぼやけたり、普段と違う風景が見えるのは少々楽しい。特に夕暮れ時、灯りがにじんで見えるのは幻想的だ。

 

岡本太郎やダリの写真を見ると、瞳孔が開いているようにも思える。

もしかしたら、彼らの目にも幻想的な光景が映っていたのかも、それがああした作品の制作につながったのだろうか…と想像する。

もちろん、実際のところは分からないけれど。

 

凡人の私は、彼らのような瞳を持っていない。

そろそろ左眼が完治して欲しいけれど、あの光景が見られなくなるのは、少しだけ残念な気もする。

 

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